粉引茶碗 銘 ふじの高根
(こひきちゃわん めい ふじのたかね) Tea bowl, named "Fuji-no-Takane"川喜田半泥子
(かわきた はんでいし) Kawakida HandeishiH 8.2cm W 12.4cm D 12.4cm
三重県津市の素封家で、東京・大伝馬町に寛永年間から続く木綿問屋の家に生れた川喜田半泥子は、1歳で家業を継ぎ、百五銀行頭取や数々の企業の要職について財界で活躍する一方、陶芸、絵画、書、写真、建築などの各方面に芸術的才能を発揮し、日本の近代陶芸史に大きな足跡を残した。また私財を投じて三重県下初の総合文化施設をもつ財団法人石水会館を創設し、地域振興、文化事業のパトロンでもある。作陶は50歳を超えて本格化し、ユーモアや壮大な思念が込められたその作品は、趣味の域を超えて当時の陶芸界に新たな息吹を吹き込んだ。半泥子の芸術・文化への鋭い着眼点と深い知識は、交流を重ねた荒川豊蔵や金重陶陽、三輪休和、三輪壽雪や若き陶芸家たちにも深い影響をあたえた。 本作品は、土にかかる白化粧に引っ掻いたような掻き落しがはいり釉薬が掛けられた茶碗である。共箱の蓋表に「自作」、蓋裏には「ふじの高根 ト云 半泥子」と書かれてある。「壽」の焼き印がはいった外箱も伴う。1957年5月26日に仁和寺で催された半泥子の傘寿祝賀会で参加者100名に配られた記念の茶碗の一つで、併せて配られた『半泥子八十賀百盌鑑』掲載の茶碗である。図録の「一ノ宮市 服部敏郎蔵」の記載から茶碗の贈られた先が確認できる。祝賀会参加者に配られた百碗の銘は小倉百人一首からとられており、本碗の「ふじの高根」は山部赤人の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」に由来すると考えられる。この記念の100碗は、祝賀会にむけて1年前から半泥子が制作を始めたことが知られていることから、制作年がほぼ特定できる。